コラム
相撲記者長山の歴史コラム 私の取材したちょっといい話 魁皇
2020年12月8日 16:55配信
この武双山の大関昇進で人一倍闘志を燃やしていたのが魁皇だった。魁皇は昭和63年春初土俵で、若貴、曙と同期。前記3人の出世があまりにも早かったのであまり目立たかなったが、一般的に見れば順調な出世を果たしていた。
それどころか握力計を振り切るなどの角界随一の怪力を誇り、素質的には横綱になった同期生3人に決して引けを取らなかった。
ただし若貴、曙、武蔵丸、貴ノ浪の5人体制が続いていた時期には、優勝決定戦には2度も出場しながら、大関への壁はなかなか突破できなかった。また、「お産の女性とかがたまに痛めるぐらいで普通はあまりけがしない」という股関節を負傷し、低迷を余儀なくされた時期もあった。
平成12年初場所千秋楽、武双山が初優勝をかけた1番では、7勝7敗で対戦し一気に押し出され負け越し。関脇から陥落という屈辱を味わった。翌春場所は小結で8勝7敗。小結にとどまった夏場所では、ついに“眠れる大器”が覚醒した。
6日目には1敗で全勝の貴乃花と対戦。両腕で貴乃花の左腕をきめるようにしての小手投げから押し出した。貴乃花が「(魁皇の)腕力はすごい。振られるときまっちゃきますよ」と感嘆するほどの怪力ぶりを発揮した。
中日を終えた段階で1敗をキープ。同じく1敗の横綱貴乃花・曙と同期生3人による優勝争いとなった。しかし当の魁皇は「オレの場合、中日まで1敗でも終わってみれば8勝、9勝ということが多いから(笑)」とあくまでも無欲を強調。魁皇は当時、周囲の話では相当奮起していたようだが、あまりそうしたことを表に出すタイプではなかった。
13日目には、貴乃花が千代大海に敗れ2敗と後退。千秋楽魁皇は玉春日を寄り切り1敗を守ったが、曙は貴乃花との横綱決戦に敗れ2敗。この瞬間、魁皇の初優勝が決まった。
場所後の花相撲の時に魁皇に初優勝の感想を聞いてみた。
「賜杯は触れるどころか間近で見たこともなかった。とにかく最高の気分でしたよ」
曙が負ければ優勝が決まる両横綱との対戦は、貴乃花を応援していたのでは?
と聞いたところ…。
「いやー、そうは言えないけどね(笑)。自分では決定戦もあると思って待っていたんですけど、そりゃ一発で決まってほしかった。誰でも一緒だと思うんですよ。優勝が決まった瞬間は、何か力が抜けて頭が真っ白になりました。どうしていいのか分からなかった(笑)。立ち上がらなくていいのに立ち上がって、ドロ着(待機中にはおる浴衣)を脱がなくていいのに、脱いじゃって…。あとでよくよく考えたら、何やってんだと思ったすよ(笑)」
優勝直後、魁皇は地元福岡の直方市で凱旋パレードを行った。紙吹雪の舞う中、沿道には多くの市民が押し寄せた。
「オープンカーに乗ったんですけど、すごく恥ずかしかった(笑)。特にスタートの頃は雨まじりだったので、何というかあのでっかい傘のようなやつをさして乗ったからね(笑)。お茶の野点(のだて)で使うような傘? そうそう、それ(笑)」
照れ屋の魁皇らしい答えだった。
初優勝後、地元直方市で雨混じりの中で行われた優勝パレード
関脇に復帰した翌名古屋場所は大関取りの場所となった。
2連勝と順調にスタートしたが、「負ける気がしない? そんなことないよ。場所の3日前ぐらいに前に、なぜか前頭3枚目になっている夢を見て、あせったんだから(笑)」とあまり生きのいい返事は聞かれなかった。
3日目には貴ノ浪に寄り切られて初黒星。「1回負けたぐらいでどうのこうの言ってられない。相撲は楽しまなくっちゃね(笑)」。自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。
結局、11勝を挙げ、場所後に大関に昇進。その後魁皇は4回優勝し、計5回も賜杯を手にした。年6場所制になった昭和33年以降、28人の横綱が誕生していえるが、その内12人が優勝5回以下。横綱になれなかったのが不思議なほどで、史上最強の大関と言っていいだろう。
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