コラム
相撲記者長山の「歴代横綱~5代目小野川喜三郎」
2018年6月4日 16:55配信
歴代横綱物語
(5)5代目小野川喜三郎
「谷風は まけたまけたと 小野川が かつをよりねの 高いとり沙汰」
天明2年2月場所7日目、小野川が白星街道を驀進中だった谷風を破った時に蜀山人詠んだ狂歌だ。
マスコミなど発達してない時代にもかかわらず、それほど小野川の勝利は、江戸っ子たちにインパクトを与えたことになる。
小野川は宝暦8年近江国善所、現在の滋賀県大津市で生まれ、本名・川村喜三郎。安永元年に大坂相撲で相模川を名乗り、翌年小野川才助の養子となって小野川と改名。
その後江戸相撲に参入し、8年10月の番付で二段目(現在の十両)筆頭に付け出され、やがて看板力士に成長していく。
176センチ、116キロと、寛政時代の大型力士がひしめく中では、決して大きな体ではなかった。しかし、「野翁物語」にも「玄秘妙手ありて、少しのスキあるときは、谷風といえども勝つことあり」と記載されているように、スピーディーな名人タイプの力士だったようだ。
寛政の相撲黄金時代の立役者で、谷風との対戦のあると日の相撲場は、午前5時に木戸札止めになったという。
寛政元年11月にはライバル谷風ととともに横綱免許を受けた。
寛政3年には将軍家斉の上覧相撲があり、結びの谷風との対戦には、相撲の家元・吉田追風が裁いた。谷風が立った時、小野川が立たなかったが、まだ相撲が始まっていないにも関わらず、追風は谷風に軍配を上げた。
将軍から驚きの下問があった時、追風は「小野川に後の弱みがございまして、気負けでございます」と答えている。勝負付けには「小野川の気負け」と残る。
こうしたことから江戸ではどうしても谷風の脇役的な存在で語られることが多かったが、もともと上方力士だったため、京大阪では谷風を上回る人気だった。
もっと評価されてもいい名力士といっていいだろう。
寛政9年10月に40歳で引退。江戸年寄小野川才助となり、文化3年に49歳で死去した。
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