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コラム

相撲記者長山の「歴代横綱~4代目谷風梶之助」

2018年5月9日 16:35配信

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歴代横綱物語

(4)4代目谷風梶之助

「わしが国さで見せたいものは、むかしゃ谷風、今、伊達模様、、、」と、古くから先代地方で唄い継がれている里謡の中の谷風は、寛政期の相撲黄金時代を築いた古今無双の大力士。

歴代横綱としては4代目に数えられているが、実際の横綱の始祖であり、注連縄をまいて土俵入りを行ったのも谷風が最初である。

寛延3年、陸前宮城郡(宮城県仙台市)生まれで本名・金子与四郎。関ノ戸(のちの伊勢ノ海)の弟子となり、明和6年4月場所に達ヶ関の名で看板大関として江戸本場所に登場。当時は巨体を誇る力士は実力に関係なく大関に付け出され、客寄せに利用された。

谷風も同様な扱いを受けたが、実力が認められ、明和7年11月場所、前頭筆頭に下がって最出発。安永5年10月場所小結の時に2代目谷風を襲名し、天明元年3月場所には実力大関となる。

189センチ、169キロの巨体ながら上品柔和な風格を備えていたという。相撲の達人として知られ、腰を落としての寄り身は威力十分でめったに負けることはなかった。足掛け10年にわたって、小野川に喫した1敗のみという超人的な記録がある。幕内勝率も現在とは比較できないが、9割4分9厘と超ハイレベル。

天明2年2月場所7日目、小野川に敗れて連勝が63でストップした時には、江戸中で大騒ぎとなった。もちろん当時は引き分けや預かりなどもあり、連勝記録などという概念はなかった。無敵だった谷風が敗れたことで大きな話題となったのであろう。

時に谷風31歳、小野川23歳。大相撲史上空前の黄金時代といわれる谷風―小野川時代はここから始まる。

こうした人気を受け、本邦初の横綱が許されたのは寛政元年11月。小野川と同時だった。

現役中だった寛政7年1月、江戸の蔓延した悪性の風邪(インフルエンザ)のため44歳で死亡。江戸っ子はこのカゼを「タニカゼ」と呼んで恐れたという。

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