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インタビュー

嘉風(前編):究極の感覚!横綱・白鵬戦の勝利後に訪れた“ゾーン”

2019年7月4日 18:00配信

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日本の伝統文化を色濃く継承する、華やかな大相撲の世界。力士たちは皆、なぜこの道を志し、日々土俵に向かっているのだろうか。さまざまな人気力士たちにインタビューし、その素顔を探っていく。

記念すべき第1回は、気迫あふれる相撲で老若男女を虜にしてやまないベテラン力士・嘉風雅継関。これまでの歩みを振り返っていただいた。

(聞き手・文・撮影=飯塚さき)

相撲を始めたのは、ずばり「好きだったから」

――嘉風関が相撲を始めたきっかけは何だったのでしょうか。

嘉風関(以下、「 」のみ)「小学校に上がる前から、なぜかずっと相撲が好きだったんです。母の実家に里帰りしたときには、祖父と畳の上でよく相撲を取っていました。小学4年生のときに、住んでいた大分県佐伯市に大相撲の巡業が来て、お相撲さんが相手をしてくれる子どもの稽古に参加しました。巡業がきっかけで佐伯に相撲クラブができたので、そこで始めたのが最初ですね。」

――その頃から既に本格的に取り組んでいたのですか。

「いえ、当時は遊びの延長で、楽しい相撲クラブでした。全国大会を目指すようなレベルではなく、稽古もすごく楽しかったので、毎回行くのが楽しみで通っていたんです。」

――角界を意識したのはいつ頃ですか。

「中学生になったときには、将来は大相撲の世界に入るつもりで過ごしていました。3年生のとき、クラブの先生のつながりで、中津工業高校相撲部の監督にお声がけいただきました。僕は相撲が好きですぐに角界入りしたいと考えていたので、高校に行く気は全くなかったのですが、それでも挨拶したいといわれてお会いしたんです。話を聞いているうちに、先生の正義感に心揺さぶられ、この先生の下で相撲をしてみたいと、一瞬で心変わりしました。」

――そうして高校に進学するのですね。

「でも、県大会優勝や全国大会出場を目指す学校だったので、相撲の稽古が初めて厳しいと知ったのが高校時代です。『相撲が好き』という気持ちも、ゼロになったわけではないけれど、『好き』よりも稽古がきついという気持ちのほうが勝ってしまって、大相撲の世界は断念。僕を誘ってくれた顧問の先生は、3年間担任でもあり、強烈な尊敬の念があったので、その先生のように体育の教員になりたいと思って、卒業後は先生の母校でもある日本体育大学に進みました。」

アマチュア横綱がもたらした大きな壁と入門への一歩

――相撲の名門である日体大でも、相撲部に所属して活躍されました。当時は将来をどのようにお考えでしたか。

「大学時代は教師を目指しながら過ごしました。しかし、相撲が好きな気持ちもゼロではなく、1年生の最後のほうからレギュラーで全国大会に出させてもらったことで、自信がついたというのでしょうか。」

――3年生では、全日本相撲選手権大会で優勝し、見事アマチュア横綱に輝きました。

「正確にいうと、横綱を『取ってしまった』ですね。横綱とは、これまでのように泥臭く地道に努力するのではなく、淡々と飄々と勝つものだとどこかで勘違いしたのか、4年生では自分らしい相撲が取れず、面白くもありませんでした。覇気のある相撲が取れなかった。自分にとっては荷が重かったのかもしれません。アマチュアに残って教員として相撲を続けることもできるけれど、このまま続けていたらこのままで終わるなという思いがありました。」

――その思いが、入門へとつながったのですね。

「それまでもずっと、相撲が好きだという気持ちは持ち続けていました。あのときの経験があったからこそ、力士になろうという気持ちが固まり、結果的に大相撲界での今の自分がいるので、選択は間違っていなかったと思います。」

――角界入りへの葛藤はありませんでしたか。

「今から10年ほど前に、大分国体がありました。大学卒業時は、大分県の先生や相撲関係者の皆さんに、県の中心選手として出場してほしいとの声をかけていただいていたので、すんなりと決断には至らず悩みました。しかし、やはりこのまま終わりたくない気持ちが強かったので、入門を決めました。」

――アマチュア横綱といったタイトルがあると、入門時に幕下付出の資格を得ることができますが、1年間を過ぎるとその資格は失われてしまいます。嘉風関は、4年生で卒業を待ってからの入門となったため、タイトルホルダーとしては初めて、前相撲からのスタートになりました。

「それに関しては、最初からそんなに気にはなりませんでした。そんなこと言っても仕方ないじゃないですか。早く関取に上がりたいとは思っていましたが、4年生でもタイトルを取れなかったのは自分の責任ですから、下から始めることに抵抗は全くありませんでした。」

――入門後の苦労はありましたか。

「もうよく覚えていないのですが、要領を掴みながら、やるべきことをやろうと専念していたと思います。」

ベテランだからこそ完全燃焼を目指す

――力士として、今までで印象に残る場面は何かありますか。

「全部印象に残っているともいえるし、全部印象に残っていないともいえます。まず、過去の取組はあまり覚えていません。関取衆の取り口はだいたいもうわかっているので、例えばその日の相撲を見返して反省するようなことも、今はないからです。過去は振り返らないタイプかもしれないですね。逆に、勝った相撲は全部よかったといえるでしょう。そういう意味で、勝った取組は全部印象に残っているんです。」

――なるほど。では、勝ったなかでもよく覚えている取組はありますか。

「横綱・白鵬関に初めて勝ったときでしょうか。4年前、2015年9月場所の2日目です。初日は、稀勢の里関に電車道で持っていかれていました。せっかく上位で取れているのに、ダメだなと思って。白鵬関は一方で、隠岐の海関に負けていました。連敗しない横綱なので、次は締めてくるだろうと思って気合を入れましたね。結果的に、決まり手は『はたき込み』でしたが、その瞬間は血の気が引いたというか、気持ちよかった。」

――私も見ていて、よく覚えています。あのとき嘉風関が感じたであろう土俵上での高揚感、見ている側には想像さえもできません。

「その後、3日目からいわゆる『ゾーン』に入ったのでしょうね、常に眠たくて目が乾いていました。普段は、相手の得意の形にしないようにという一応の対策があるのですが、それを考えられない状態です。制限時間いっぱいになればスイッチが入るだろう、なんて考えながら仕切っていたら、いつの間にか時間いっぱいで、頭の中で話がまとまってないよと思いながら立ち合っていた記憶があります。それが千秋楽まで続いたんです。結局11番勝って、いずれも初めてだった殊勲賞と技能賞をもらいました。あのときは、本当に心地よかったですね。」

――どのようにしてそのような状態になったのか、ご自身ではわかりますか。

「具体的にどうなっていたのかわかりません。言葉で言い表せていたら、何回もできるはずですから。あの場所は、相手に対してというより、自分自身に負ける相撲がありませんでした。」

――最近のご自身の取組を振り返って、いかがですか。

「ここ1年くらいは、なぜか勝っても負けても場所が面白くないんです。最近その原因がわかってきたので、辞める前にもう一度頑張りたいですね。すぐに引退するという意味ではなく、37歳とはいつ辞めてもおかしくない年齢なので、ここから完全燃焼で終わりたい。ベテランと呼ばれる域になってきたからこそ、いろんなことに取り組んでみようと思っています。」

後編へ続く

※この対談は6月に行われたものです

【プロフィール】

嘉風雅継(よしかぜ・まさつぐ)

1982年3月19日生まれ、大分県出身。大分県立中津工業高校、日本体育大学体育学部武道学科卒業。本名は大西雅継。尾車部屋所属。大学3年次の全日本相撲選手権大会で優勝。2004年1月場所の入門後、05年7月場所に新十両、06年1月場所に新入幕。体の機動力と、前に出る力を生かした突き押し相撲を得意とする。最高位は関脇(2019年6月現在)。

【著者プロフィール】

飯塚さき(いいづか・さき)

1989年生まれ、さいたま市出身。早稲田大学国際教養学部卒業。ベースボール・マガジン社に勤務後、18年に独立。フリーランスの記者として『相撲』(同社)、『大相撲ジャーナル』(報知新聞社)、『Yoga&Fitness』(フィットネススポーツ)、『剣道日本』などで執筆中。

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