コラム
相撲記者長山の「歴代横綱~7代目稲妻雷五郎」
2018年6月15日 17:05配信
歴代横綱物語
(7)7代目稲妻雷五郎
阿武松の好敵手だった稲妻は、実質的には文政から天保期にかけて土俵の第一人者として君臨した。
享和2年、常陸国河内郡(茨城県稲敷郡)で生まれ、本名・根本才助。九州、大坂で修行したのち、文政4年2月場所に江戸相撲の佐渡ヶ嶽門下から槙ノ島の名で幕下付け出しデビュー。7年に雲州松前藩松平侯抱えとなる稲妻と改名。同年10月場所に入幕を果たすと、早くも11年10月場所には大関になるなど、スピード出世で話題となる。
ただし横綱免許は少しトラブルがあった。京都五条家が大関直前の11年7月に横綱の象徴である「紫」のまわしと注連縄を与えた。これを吉田司家が怒り、対立することになったが、最後は五条家が折れた形で収拾。司家は12年9月に改めて横綱免許を授与した。
188センチ、142キロという偉丈夫。筋骨たくましく、数々の怪力伝説を残している。土俵でも豪快な取り口で知られ、幕内勝率は9割を超えるA級横綱であった。
強さの反面、人間修行に励み、俳句や書をたしなむ通人でもあった。31歳の時には「それ相撲は正直を旨とし、智仁勇の三つを志し、酒色奕の悪しき道に遊ばず…」という有名な「相撲訓」を残している。
天保10年11月場所を最後に、38歳で引退。引退後は江戸年寄にならず、藩侯に従って出雲におもむき、明治になって東京に戻った。
明治10年3月没、当時の力士としては異例の長寿を誇り、76歳だった。「稲妻の 去りゆく空や 秋の風」という辞世の句を残している。
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