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コラム

相撲記者長山の「歴代横綱~11代目不知火光右衛門」

2018年8月7日 17:30配信

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歴代横綱物語

11代目不知火光右衛門

「不知火型」の横綱土俵入りの創始者は、8代の諾右衛門ではなく、光右衛門というのが一般的である。ただし雲龍同様、どのような土俵入りだったのかははっきりとわかっておらず、むしろ今の「雲龍型」に近いのでは、という説を唱える好角家は多い。

映像で確認できる「雲龍型」の土俵入りを行ったのは、2代目梅ヶ谷からであるから、「不知火型」は「太刀山型」、「雲龍型」は「2代目梅ヶ谷型」とするのが一番正確なのは間違いない。

不知火は文政8年肥後国菊池郡(熊本県菊池郡)の生まれで、本名・辰野峰松。祖父が近隣に名を轟かせた草相撲の大関で、その遺伝子を引き継いだ不知火も、16歳頃には近在近郷で無敵を誇った。

まず大坂で修行したのち、嘉永2年江戸へ出て境川門下となる。殿(しんがり)峰五郎の名で幕下に付け出された。

肥後細川侯のお抱えとなり、安政3年11月場所に入幕。翌4年正月場所に不知火と改名し、文久2年2月場所に大関に昇進。3年10月に39歳で横綱免許を受けた。

177センチ、120キロ。柔らかい体と相撲上手で知られ、特に右を差したら盤石だった。また大変な美男として、当時の錦絵も飛ぶように売れたという。横綱土俵入りも“白鶴の翼を張れるがごとし”と形容されたほど華麗であった。

陣幕には0勝13敗2分けと全く歯が立たないなど、力量抜群とは言いがたい面もあったが、超人気力士だったため、横綱免許後も7年土俵を務めた。明治2年11月場所に44歳で引退。新たに「不知火」の名跡を起こし、大坂相撲の興隆に尽力した。明治12年2月に55歳で死去している。

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