コラム
相撲記者長山の「歴代横綱~10代目雲龍久吉」
2018年6月29日 16:20配信
歴代横綱物語
(10)10代目雲龍久吉
現在の横綱土俵入りの型で「雲龍型」の創設者としてその名を残している。しかし現在の「不知火型」を行ったことを写真で確認できるのは、第22代横綱太刀山からである。その太刀山が当時のマスコミに「雲龍の型を伝承した」と断言している。
そうしたことから、「雲龍型」と「不知火型」はあべこべだったのでは、という意見も多いが、いずれにしてもはっきりと証明できる資料や映像は全く存在しない。ただしそれまで拍手と四股が中心だった横綱土俵入りに、雲龍の頃から、せり上がりが定着したことだけは間違いないようだ。
雲龍は文政5年、筑後国山門郡(福岡県山門郡)で生まれ、本名・塩塚久吉。少年時代に両親を亡くし、弟2人のために大人たちに混じって力仕事に励んだ。
そのせいもあって体格に恵まれ、草相撲では連戦連勝。周囲の勧めや本人の強い意志もあり、角界入りを決意する。
大坂の陣幕部屋で修行したのち、25歳で江戸へ出て、追手風の弟子となり弘化4年11月場所に幕下付け出しで初土俵。毎場所好成績を挙げながら、当時は現在と違い、力士を抱える藩や年寄たちの力関係で番付が決まる面もあり、なかなか出世しなかった。
嘉永5年2月場所に30歳で入幕すると4場所連続幕内最優秀成績を挙げながらも番付は平幕のまま。郷里の柳川立花家の抱えとなり、7年2月場所小結、安政3年11月場所関脇、5年正月場所大関と進み、文久元年9月、39歳の時に横綱免許を受けた。
179センチ、135キロの体格で、四つに組んでじっくり取る相撲。力強い土俵入りが評判を呼び、誠実な人柄で内外の尊敬を集めていたこともあって、江戸では大変な人気力士だった。
横綱免許後は大した成績を挙げてないが、大関時代までに力を使い果たしたと見るべきだろう。
元治2年2月場所に43歳で引退。引退後は年寄追手風を継いだが、弟子運には恵まれず、明治23年6月、67歳で死去した。
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