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相撲記者長山の「歴代横綱~18代目大砲万右衛門」

2018年10月18日 18:35配信

歴代横綱

18代目大砲万右衛門

江戸から明治にかけての日本人男子の平均身長は155センチ程度と言われている。その中にあって大砲の197センチ、133キロの体は図抜けた巨人であった。江戸時代には、2メートル超えの巨漢力士が看板大関として番付に掲載された例はあるが、多くは客寄せ的な存在で、相撲を取ることはほとんどなかった。

大砲は明治2年11月28日、宮城県白石市大鷹沢三沢唐竹で生まれ、本名・角張万次。

大きな体を見込まれ明治18年1月、三沢滝のしこ名で初土俵。体こそ大きかったものの、入門当初は“コンニャク”と言われるほど足腰が弱く、初土俵から4場所連続続けて前相撲から抜けられなかった。明治19年5月、師匠の尾車親方が勧進元になった時に、ようやくお情け出世を認めてもらい、翌20年1月に序ノ口に上げてもらった。ちなみに当時は現在と異なり、前相撲である程度の成績を残さないと番付に載らなかった。

しかし序二段で大砲(大炮)と改名した頃から成績が安定し、25年6月に新入幕を果たした。その場所は3勝6敗と負け越したものの、翌27年1月には何と新小結に昇進。大きな体は興行の目玉になるという江戸時代からの慣習が、まだ抜けきれていなかったのだろう。

それでも徐々に強みを増していき、32年5月に大関、34年4月に横綱免許を受ける。取り口は巨体を利しての突っ張り、はたき込みなどが得意だったが、右四つになると負けないように守りを固めるだけの相撲だった。それでも四つになると強豪常陸山でさえ攻め切れなかった。

不器用で消極的な相撲だったため、引き分けが異常に多く、特に横綱昇進後は引き分け率が40%を超えた。

明治39年1月は1勝8分け。40年5月は初日から9日間全部引き分けとなり、「横綱ではなく分け綱だ」と陰口をたたかれた。横綱相手に引き分ける実力がありながら、平幕相手でも勝負を決められないというのは、現在の相撲の常識では考えられない。

明治41年1月限りで引退し、年寄待乳山を襲名。現役時代のイメージとは異なって話術に長け、交渉ごとが得意だったことから、巡業の先乗りなどで協会に大いに貢献した。

大正7年5月27日に48歳で死去した。

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