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コラム

相撲記者長山の「歴代横綱~19代目常陸山谷右衛門」

2018年10月25日 19:00配信

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歴代横綱

19代目常陸山谷右衛門

「常陸の前に常陸なく、常陸のあとに常陸なし」とまで言われ、強さも体も人物も力士の理想と称賛された。引退後の貢献度も抜群で“角聖”とも呼ばれた古今独歩の大横綱である。

常陸山は茨城県東水戸市城東に明治7年1月19日に生まれた。本名・市毛谷。市毛家は代々水戸藩に弓一筋で仕えた士族の家柄で、常陸山も、当時としては非常にまれな中学校(旧制水戸中)に通った経歴を持つ。

怪力ぶりを見た叔父の勧めで中学を中退し、同郷の常陸山虎吉(のちの出羽海)に16歳で入門。明治25年5月に初土俵を踏み、御西山のしこ名から27年1月に常陸山と師匠の名を継承した。28年6月に幕下で初めて負け越し、その他のトラブルもあり脱走。名古屋相撲から大阪相撲に移り、大阪一の実力者となった。

明治30年4月に東京に帰参。大関クラスの実力があるといわれながら同年夏は幕下付け出しで取らされた。しかし当然のごとく白星街道を驀進し、32年春入幕、33年5月関脇、34年5月には大関に昇進した。ライバル梅ヶ谷は年下ながら、入幕で1場所、大関で2場所先行し、常陸山が追いかける形だった。

明治36年5月には常陸山と梅ヶ谷の両大関は千秋楽に全勝で対決。常陸山が勝利を収めたが、場所後同時に横綱免許を受けた。その他個性的な力士の台頭もあり、相撲界は空前の活況を呈した。この梅常陸時代の人気が、42年6月の旧両国国技館開館に繋がったと言っても過言ではない。

常陸山は174センチ、146キロ。相手の声で常に受けて立ち、十分に取らせておいてから振り飛ばすような豪快な取り口。それでもほとんど取りこぼすことはなく、約16年間の土俵生活で黒星はわずか15個。

しかし強いだけではなく、人間的にも破格のスケールを誇った。常陸山の交友関係は政財界にも及び、現役だった明治40年には渡米して時の大統領ルーズベルトとの会見を実現。裸の大使としての先鞭をつけた。

大正3年5月限りで引退し年寄出羽海を襲名。大錦、栃木山、常ノ花の3横綱を始め数多くの名力士を育成し、一代で角界一の大部屋を築いた。協会では取締として力士の品位を高め、生活向上を図るなど、相撲界の近代化に大きく貢献した。

大正11年6月19日に49歳で死去。相撲協会は初の「協会葬」で手厚く見送った。

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