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コラム

相撲記者長山の「歴代横綱~20代目梅ヶ谷藤太郎(2代目)」

2018年12月6日 17:20配信

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歴代横綱

20代目梅ヶ谷藤太郎(2代目)

明治黄金時代を築いた一方の立役者である2代目梅ヶ谷は、明治11年3月11日、富山県富山市水橋大町の薬売りの家に生まれ、本名・押田音松。

子供の頃から当時としては珍しく肉付きがよく、明治24年の夏巡業中に大関剣山に見出され、雷(初代梅ヶ谷)養子になる。梅ノ谷のしこ名で前相撲から取り、序ノ口に載ったのが15歳だった25年6月。同部屋には鬼ヶ谷という名コーチの存在もあり、徹底した英才教育で横にもろい欠点を克服し、番付を駆け上がった。

明治31年1月新入幕、32年5月関脇、33年5月には大関に昇進。そして前記の通り36年5月場所後には常陸山と同時に横綱免許を受ける。江戸から明治にかけては年2場所と場所数も少なく、よほどの強豪力士でも短期間で出世することは困難だった。しかも江戸勧進相撲からの慣習で、横綱・大関には強さだけではなく、経験年数も重要視されていた。

そんな時代に梅ヶ谷の23歳で大関、24歳6か月での横綱昇進は、考えられないほどのスピード出世。当然小錦の記録を更新する史上最年少の横綱であった。

168cm、158kgは当時として大変な巨漢力士。しかし、短軀肥満ながらもまれに見る相撲巧者で、立ち合いに相手の呼吸を計って立ち、左を差しての攻めは天下一品と言われた。堅実で、細心な取り口は、豪快な常陸山とは好対照をなし、満天下の人気を二分した。ライバル常陸山にはやや劣るものの、幕内勝率は8割6分2厘と高く、一級横綱であったのは間違いない。

また土俵入りの美しさも評判で、現在の雲龍型は、この2代目梅ヶ谷の型を踏襲したものと言われている。

アンコ型にも関わらず力士寿命も長く、横綱在位は実に11年4か月。大正4年6月、37歳で引退した。引退後は養父の名跡を継ぎ年寄・雷を襲名。取締まで務めて協会運営に尽くしたが、弟子運には恵まれなかった。

昭和2年9月2日にライバルと同じ年齢の49歳で死去。初代梅ヶ谷が83歳と長命だったため、養父より1年ほど先に世を去った。

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