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コラム

相撲記者長山の歴史コラム 美男力士列伝 幕末〜昭和戦前①

2020年8月16日 10:00配信

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古今美男力士列伝  いくら強くても、顔が鬼瓦みたいな力士ばかりでは相撲興行は盛り上がらない。最近の相撲人気も、遠藤や炎鵬のようなイケメン力士の存在が大きいのは間違いない。

 江戸の頃より顔立ちのいい力士は存在しただろうが、錦絵でははっきりと判明できない。写真技術が長足の進歩をみせた幕末以降の美男力士を、個人の独断で列挙してみた。ただしお相撲さんの場合は強さが伴ってこそ、その美貌がより映えるのは間違いなく、三役以上の力士に限定した。

★不知火光右衛門(横綱) 現在の「不知火型」の横綱土俵入りの創始者と言われているが、本当はどんな形でせり上がっていたかは、わかっていない。 「彼は白皙(はくせき)の好男子であり、よくにしき絵の画材となって、当時はもちろん、後の世までもてはやされた」(彦山光三「横綱伝」)と後世までに伝わる美男。「白鶴(はっかく)の翼を張れるごとし」と形容された横綱土俵入りも評判を呼んだ。錦絵も飛ぶように売れたという。

 不知火は文政8年(1825)3月、熊本県菊池郡大津町に生まれた。同郷の先代不知火(諾)の弟子となり、大阪相撲で修行。のちに江戸へ出て境川門下となる。嘉永3年11月場所に二段目に付け出され、安政3年(1856)11月場所に新入幕。文久2年(1862)2月に大関昇進し、翌3年10月に38歳で横綱免許を受けた。  177cm、120kg。柔らかい体と相撲上手で知られ、特に右を差したら盤石。出足早に相手を圧倒し、機に応じて巻き落としたり、すくい投げや巻き落としたりと名人型の力士だった。

強豪横綱だった陣幕には0勝13敗2分けと全く歯が立たないなど、力量抜群とは言いがたい面もあった。横綱まで登り詰めることができた背景には、肥後出身で肥後細川家抱えだったのが、細川家家臣である吉田司家(相撲の家元)に対して有利だったからとも言われている。超人気力士だったため、横綱免許後も7年土俵を務めた。

華麗な横綱土俵入りで人気を集めた不知火

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