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インタビュー

錦富士(後編):角界の注目株がこれまでの半生を振り返る

2022年11月4日 10:48配信

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日本の伝統文化を色濃く継承する、華やかな大相撲の世界。力士たちは皆、なぜこの道を志し、日々土俵に向かっているのだろうか。本連載コラムでは、さまざまな人気力士たちにインタビューし、その素顔を探っていく。

いま勢いに乗る錦富士のインタビュー後編。安美錦(現・安治川親方)にあこがれて伊勢ヶ濱部屋へ入門。しかし、意外にも相撲を始めたのは嫌々だったという。いまをときめく角界の注目株に、これまでの半生を振り返っていただいた。

聞き手・文・撮影/飯塚さき

躍進の理由は稽古量への自信と考え方の変化

――これまでで印象的な場所はありますか。

錦富士関(以下、「」のみ)「今年の3月場所です。十両の5枚目で、4勝8敗と早々に負け越しました。でも、そのときに何か吹っ切れたというか、つかんだ感じがしたんです。負けたけど、これだけやってきたんだから、手をついて立つだけで、あとは体に任せれば自然に動くだろうって、何も考えずに自分の立ち合いと呼吸を合わせることだけに集中しました。そうしたら、自然と自分の圧力を相手に伝えられたし、顎も肩も上がらず丸く相撲が取れて、最後は3連勝したんです。左肘のケガと度重なる手術があり、早く幕内に上がらないとという焦りがあったんですが、負けたことでなるようになるさと思えて、うまく和らいだ感じでした」

――しかし、それは日頃の稽古に裏打ちされた自信ではないでしょうか。

「本当にその通りです。横綱(照ノ富士)にいつも『自分は周りより稽古してきたから、場所で緊張したことはない』『お前は稽古場で強いし、あれだけ稽古しているのに、なんで本場所ではあんな相撲しかとれないんだ』と言われてきました。その言葉はありがたく、でも期待を裏切ってしまっているプレッシャーがずっとあったんです。兄弟子たちは自分のために言ってくれているのであって、やるのは自分だから深く考えずにいこうと思ったら、本当に楽になりました。一日一番。これだけやってきたからできるっていう思いでいれば、先に出るものが欲にならない。もちろん欲はあるし、上がりたいから日々稽古しているんだけど、だからといって見返りを求めるんじゃなくて、頑張った先に結果があるっていう考え方です。いまはそれができているから、稽古場でできることを本場所でできないということがなくなってきました。先を見るのも大事ですが、まずは一日を全力でどう生きるか。そうやって日々頑張っています」

――26歳でその気づきがあるのはすごいことだなと思います。

「安美錦関の付け人をずっとしていたし、肘をケガしたときは横綱に治療や自分の体にお金をかけることの大切さを教わりました。こうしていろんな先輩がいたおかげで学べたことです。いまの若い衆も、どれだけ早くそういうことに気づけるかだと思います」

とことん突き詰める性格が相撲で開花

――あらためて、相撲を始めたきっかけはなんでしたか。最初は嫌々だったとお母さんから聞きましたが。

「本当はサッカーをやりたかったんです。自分は足が速かったので、サッカーを始めてすぐに同級生には負けないくらいうまくなりました。相撲は、親に『3位までに入ったら遊戯王カード買ってあげる』と言われて、地元の祭相撲にエントリーさせられたんです。そうやって、うまくだまされてやっていました(苦笑)。最初はみんな僕のことを知らないからフットワークよく勝つけど、次に当たると1回戦負けで、それが悔しくて。一時、サッカーの練習が夕方7時に終わってから、夜10時近くまで相撲の稽古に行っていました。1年経ったあたりでどちらかにしなさいとなって、僕は迷わずサッカーを選んだけど、サッカーは団体競技なので、僕がどれだけうまくても、チームが弱かったら大きな大会には行けない。相撲は1対1なので、自分が頑張った分返ってくる。親は、そんなところが僕の性格的に向いていると思ったらしくて、相撲を選ぶことになりました」

――本当は嫌だった相撲。いつ頃から、どうしてのめり込んだんですか。

「4年生くらいからですかね。やり出すと追及したくなる性格なんです。でも、小学生で泣きすぎて涙が枯れたので、大人になってから泣いたことないんですよ。映画館でも泣かない。青春時代に涙を流しすぎて、冷めた人間になってしまいました(笑)。稽古がきついっていうのもそうだし、負けず嫌いなので試合で負けたら誰とも話したくないのに、親がめちゃくちゃ説教してくるので、ケンカして試合会場に置いていかれて泣いていました。しかも青森は大会が多くて、夏なんかは週に2~3回あるんです。中学生になったら、夕方5時から11時半まで稽古して、稽古場以外で相撲のことを考えたくない時期もありました」

――その後高校は三本木農業に進学、そして近畿大学に入りますが、中退して角界入りしました。その決断の理由はなんだったのでしょうか。

「高校も相当きつかったけど、大学は全国からいろんな強い子が来ていて、1年生は雑用係です。ちゃんこ番や掃除ばかりで、稽古した覚えはありません。先輩からダメ出しがあれば、何時間も正座。ここで相撲を頑張ることは無理だなと思いました。でも、きつい間に逃げることは嫌だったので、1年生を耐え抜いて、2年生で頑張ってレギュラーになってから角界へ来ました。僕なんかは、学生時代にそんなに活躍できる選手ではなかったので、厳しい部屋を選んで早く入ってよかったと思っています」

日頃の生活が相撲にも生きてくる

――あこがれの力士はいますか。

「安美錦関です。それでうちの部屋を選んだので。アミ関が全盛期のときに強かったのは、横綱・朝青龍。でも、アミ関が当たる日は何かしてくれるんじゃないかっていう期待がありました。(朝青龍の甥である)豊昇龍に聞いたら、2場所連続で勝ったのはアミ関だけらしいですよ。それだけ強かった横綱に連続で勝つ力士であり、うまさと面白さを兼ねた人。いざ入門してみたら、裏にはこれだけの努力があるのかと学んで、さらに好きになりました」

――そんなアミ関の付け人を約2年半務め、どんなことを教わりましたか。

「普段の生活で小さいことに気づける大切さです。普段から、言われたことをダラダラやっている人は、土俵上でも勝負所で速い動きができなくて、結果疲れだけが溜まってしまいます。『あれ取ってきて』と言われて立ち上がるのが速い人は、相撲の初速も速い。今日は仕事を完璧にしたと胸を張って気持ちいい状態で相撲を取るのと、兄弟子に言われたものを忘れてしまったと思いながら取るのとでは、結果も変わってくると思うんです。日頃の生活が一つひとつ生きてくると教わりました。あとは、見返りを求めずに接したファンが、その後めちゃくちゃ応援してくれるかもしれないし、治療で助けてくれるかもしれない、何があるかわからないから、誰にでも優しくすること。日々の生活は絶対自分に返ってくると言われていたので、僕の付け人にも言うようにしています」

――素晴らしい教えですね。関取は、趣味はありますか。

「サッカーが好きなので、フットサルをしに行ったりとか、コロナ前は名古屋グランパスの練習を見に行ったり、ロッカーで選手と話させてもらったりしていました。あとは温泉に行くこと。青森は朝風呂文化で、冬は寒いから家で入った記憶がないくらいなんです。稽古場に風呂道具を持って行って、シャワーで砂だけ流して銭湯に行っていました。いまも付け人を連れて、ごはんの後にスーパー銭湯に行ったりしています」

――数場所前から気になっていたのですが、色黒になったのはサッカーやフットサルの影響ですか。

「いや、肌が黒いほうが強そうだなと思って、日サロに行っています(笑)。名古屋場所くらいまでは屋外で自然に焼けていたんですけど、ムラがあるのが嫌で、それをなくそうと思ったら常に焼いていないと嫌になってしまったという」

――聞いてみるもんですね(笑)。いろいろなお話をありがとうございました。最後に、来場所の目標をお聞かせください。

「先場所では、自信になった部分も課題もありました。毎日稽古に治療にと一日に詰め込んで、相撲のためにさらに多くの時間を使えています。目標は高いけど、『一日一番』の気持ちを崩さず、来場所もできる限り白星を積み重ねていきたいです」

【プロフィール】

錦富士隆聖(にしきふじ・りゅうせい)

1996年7月22日生まれ。青森県十和田市出身。幼少期はサッカーを習うも、小学3年生から相撲を始める。6年生のとき、わんぱく相撲全国大会でベスト8、十和田市立十和田中学校3年生のときに全国大会でベスト8。打越(阿武咲)と共に三本木農業高校に進学した。3年生で全国高校相撲宇佐大会個人3位入賞。高校卒業後は近畿大学に進学するも、2年次に中退して伊勢ヶ濱へ入門。2016年9月場所で初土俵を踏む。入門からわずか1年で幕下昇進。その後、2019年7月場所に、東幕下3枚目で5勝を挙げ、翌場所で新十両を決めた。今年の5月場所では、11勝4敗の成績で十両優勝。新入幕の7月場所では10勝で敢闘賞受賞。先の9月場所でも10勝を挙げた。身長183cm、体重149kg。得意は左四つ・寄り。

【著者プロフィール】

いいづか・さき

1989年生まれ、さいたま市出身。早稲田大学国際教養学部卒業。ベースボール・マガジン社に勤務後、2018年に独立。フリーランスのスポーツライターとして『相撲』(同社)、『大相撲ジャーナル』(アプリスタイル)、『IRONMAN』(フィットネススポーツ)、Yahoo! ニュースなどで執筆中。

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