インタビュー
元白鵬・宮城野親方(前編):最初で最後の金星の思い出 相撲道とは
2023年9月27日 10:08配信
日本の伝統文化を色濃く継承する、華やかな大相撲の世界。力士たちは皆、なぜこの道を志し、日々土俵に向かっているのだろうか。本連載コラムでは、さまざまな人気力士たちにインタビューし、その素顔を探っていく。
今回でついに最終回となる本連載。ラストを飾っていただくのは、一昨年名古屋場所を最後の土俵に引退し、今年1月に断髪式を行った、元横綱・白鵬の宮城野翔親方。前編では、主に現役時代の思い出を振り返っていただく。
聞き手・文・撮影/飯塚さき
いま振り返る最初で最後の金星の思い出
――長い現役生活のなかで、心に残る思い出にはどのようなことがありますか。
元白鵬・宮城野親方(以下、「」のみ)「20年相撲を取って、そのうち14年間は綱を張りました。そんななかで思い出の取組といったら、まずは10代で横綱(朝青龍)を倒したこと。貴花田以来ということで、私にとっては最初で最後の金星です。あとは69連勝に挑んだときに負けた稀勢の里戦。そして、最後の45回目の優勝を果たしたときの照ノ富士戦。この3つの取組はすごく思い出深いです。負けに関しては、デビュー場所で負け越し、その1年後の名古屋場所でも負け越しました。この負けから成長した部分もありましたが、それが最後の負け越しです。というふうに、勝ったことも負けたこともよく覚えています」
――最初で最後の金星はどんなふうに覚えていますか。
「2004年11月場所の11日目でした。この話の最初は、その年の春にさかのぼるんです。3月場所で十両優勝して、十両を2場所で通過し、春巡業で朝青龍関に初めて稽古をつけていただきました。いまでも忘れない、藤沢巡業です。一度だけ、もつれて浴びせ倒し、横綱が腰から崩れていきました。稽古だったけど、勝てたことがものすごく自信になったし、うれしかった覚えがあります。それから新入幕の5月場所前に、当時立浪一門の連合稽古に横綱が来てくれて、何度か稽古したけどそのときは勝てなかった。その後新入幕で敢闘賞を受賞して、6月に北京・上海巡業がありました。約30年ぶりの中国巡業で、30年前は解説の北の富士さんが横綱で、北の湖さんが19歳だったそうです。我々の滞在は、たしか3泊か4泊くらいでした。初日と2日目に優勝を決めて、最後はその二人が対戦して総合優勝を決めるということで、初日は朝青龍関が優勝。2日目は、新入幕だった私がなんと優勝して、最後に直接対決をしました。そして、勝っちゃったんですよ。これも浴びせ倒しでした。勝てるイメージはなかった。絶対に稽古場とは違うと思ったし、ケガしないように土俵から降りられればいいなと思っていたんですけど、勝てたんですね。これもまた、今後やっていけるんじゃないかなっていうひとつの自信になりました。だから、中国は思い出の地でもあります。その後、名古屋の後の9月場所で、本場所で初対戦。負けちゃったんだけど、自分の形にもっていくことができたんです。力負けしたんですけど、長く土俵にいられた。そして、九州でこれら全部のパズルが合わさって、初金星につながりました」
――積み重ねたものの先に勝ち取った金星だったんですね。
「あと、その年の夏にモンゴルに帰ったとき、初めて野生の狼を見たことも大きかったんです。父の妹が遊牧民で、夏休みに遊びに行くんだけど、それまでは狼の鳴き声を聞いたことがあるだけで、実際に姿を見たことはありませんでした。19歳で里帰りして、真っ白な狼の姿を見ました。目が怖かったんです。お前はどこからでもかかってこいと言わんばかりの、薄い緑色の目で睨まれて。そんな体験があってから土俵に上がったとき、いままで朝青龍関の目を見られなかったのが、見られるようになった。人間の目は、なんて優しいんだ――。こういう積み重ねがあって、金星がありました」
肌を合わせて一番強かった力士は?
――ちなみに、親方がこれまでで一番強かったなと思う人は誰ですか。
「誰が一番っていうより、みんな強いからねえ。魁皇さんには絶対右を取らせちゃいけないし、朝青龍関や日馬富士関は中に入らせちゃいけない。稀勢の里や琴奨菊は左四つにさせちゃいけない。ただ、うまさでいったら琴光喜関が一番うまかったかな。自分の体勢になっても、いつの間にか不利になっている自分がいました。対戦成績を見れば、一番やりにくかったのは日馬富士関だったかもしれないね。スピードのある人が苦手でした。ついていきづらいから、どうしても思い切りがなくなって、腰を引いてしまうんです」
――長く土俵に立ち続け、いろんな人と対戦した経験は、いま師匠になってどう生きていますか。
「私は、5つの時代で相撲を取ることができたと思っています。新進気鋭の白鵬時代、朝青龍関との2横綱時代、一人横綱時代、4横綱時代、そして貴景勝ら新しい力との世代交代の時代。そういうものを肌で感じながらやってきたことは財産です。そのなかでさまざまな問題もありました。そういう意味では、角界を引っ張った人間として、昔の大相撲はこうだったと言える立場といいますか、言葉の力はあるのかなと思います」
相撲道とは自分で見つけて切り開いていくもの
――師匠として、人を育てることをどんなふうにお感じですか。
「以前、母親に言われました。『割れた器を元に戻すのには時間がかかる。人にものを教えるのは、それ以上に大変だよ』と。不思議なんだけどね、『いまの子は』『最近の子は』って、いつの時代もよく言われるじゃないですか。これはエジプト文明の石碑にも書いてあるんですって。面白いでしょ?それくらいずっと言われていること。だからこそ、いまの時代やいまの子たちに合わせていけるようになりたいなと、常に思っています」
――そうなんですね。例えばどんなふうに心がけていますか。
「相撲道って、いろんな伝え方や感じ方があると思うんです。例えば、私は双葉山・大鵬に憧れて愛しています。双葉山さんは、戦後親方になって、弟子が40~50人いましたが、朝稽古場に来ても、ものすごく静かで何も言わないんだそうです。飛んでいる虫の音しか聞こえなかったとか。現役の頃はそれがちょっと理解できなくて、アドバイスとか何か言わなかったのかなと思っていました。最近、それがなんとなくわかった気がしてね。戦後の時代って、日本はまだ貧しくて、親を楽させてあげたい、日本や故郷の名前を上げたいっていうハングリー精神がありました。一生懸命さがあったから、師匠が黙っていても強くなったんじゃないかなと、つまり、弟子たちが自ら相撲道を考えて、切り開いていった。その上で自分を振り返ってみると、20年相撲をやったなかで、師匠に厳しく怒られたことって一度もない気がするんです。師匠が上がり座敷に来た瞬間、言葉をかけてもらいたい、自分を見てもらいたいという気持ちで一生懸命やってきました。だから結果を出すことができた」
――では、今度は弟子に相撲道を自ら切り開いてもらえるように指導していかれると。
「はい。いまは、土俵では弟子たちになるべく声をかけてあげたいと思っていますね。私は舞の海さんのビデオを毎日何回も見て、小さい人が大きい人をどうやって倒すか考えながら相撲を取っていました。だんだん体が大きくなってきたら、無理に小さい相撲を取らなくていいんだと思えるようになりましたが、相撲道はそうやって自分から見つけていくもの、切り開いて強くなって結果を出していくもの、いろんな人との出会いがあって学んでいくものなんですね。それを弟子には感じてもらえたらいいなと思っています」
(第54回・後編へ続く)
【プロフィール】
みやぎの・しょう
1985年3月11日、モンゴル・ウランバートル市生まれ。メキシコ・オリンピックのレスリング重量級銀メダリストである父のもとに生まれ、2000年に初来日。宮城野部屋に入門し、01年3月場所に初土俵を踏む。序ノ口の土俵では負け越すも、その後04年1月場所で新十両、5月場所で新入幕と出世街道を駆け上がり、07年7月場所から21年9月場所まで約14年間綱を張った。連勝記録は63。10年3月場所~9月場所の4場所連続全勝優勝で、双葉山の69連勝に次ぐ歴代2位、15日制になってからは歴代1位の記録。そのほか、横綱在位84場所、優勝回数45回など、いずれも歴代1位の大記録を数多く保持している。引退後、今年1月に国技館で断髪式を行い、現在は宮城野部屋の師匠として、北青鵬、伯桜鵬ら弟子の指導に当たる。得意技は、右四つ、寄り、上手投げ。現役時の身長は192cm、体重155kg。
【著者プロフィール】
いいづか・さき
1989年生まれ、さいたま市出身。早稲田大学国際教養学部卒業。ベースボール・マガジン社に勤務後、2018年に独立。フリーランスのスポーツライターとして『相撲』(同社)、『大相撲ジャーナル』(アプリスタイル)、『IRONMAN』(フィットネススポーツ)、Yahoo! ニュースなどで執筆中。
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