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相撲記者長山の歴史コラム 相撲記者長山の目「巡業の取材」その5

2019年10月7日 17:40配信

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平成後半には全盛時代を極めたモンゴル人力士。そのパイオニア的存在といえば、旭鷲山だ。旭天鵬、旭天山らとともに平成4年春に来日し、7年春には早くも関取まで昇進した。

その原動力となったのが、豊富な稽古量。その後のモンゴル人力士も同様だったが、通常の日本人力士とはスタミナが全然違ったが、特に旭鷲山は歴代のモンゴル人の中でも抜群のタフさを誇った。

最近は、昭和30年代までの日本人力士と稽古量が全然違うと言われていたが、それは体が大きくなったことが一因とされていた。しかしモンゴル人力士の出現で、実は子供のころの育ち方の相違が、スタミナ面に影響を及ぼすのでは、とも考えられるようになってきた。

旭鷲山が新三役直後に行われた、平成9年の春巡業は、例年通り伊勢神宮の奉納相撲から始まった。午前中は神宮内宮で横綱・三役神前土俵入りが行われるため、三役以上の力士は全く稽古をしないのが常識だったが、小結だった旭鷲山は、朝早く稽古場に姿を現し、四股や腕立て伏せなどの準備運動を繰り返してから内宮に向かった。神前土俵入りを行う力士が稽古土俵に姿を現したのは、私が見た中では、旭鷲山だけだった。

実質的な巡業スタートとなる翌日の愛知県豊田市巡業では、幕下の申し合いに参加し、16番。その後幕内の申し合いでは積極的に挑み、42番(20勝22敗)、と計58番も取った。最近の巡業では時間の関係もあり、20番を超えれば多いほうだから、「巡業初日でこんなに稽古した人はいないでしょう。毎日30番以上をやることを目標にしているんだ」と旭鷲山は誇らしげに語っていた。

これには当時の陣幕巡業部長(元横綱北の富士)も「目の色を変えて稽古しているのは旭鷲山だけだね。みんな彼を見習ってほしいよ」と絶賛していた。

平成7年に巡業改革が行われたが、イベント会社が仕切ったこともあり、割(取組)をネット中継し、優勝者を決めたり、巡業三賞(MVP30万、精勤賞20万、努力賞20万)が設けられるなど、新基軸が次々と打ち出された、

巡業優勝や三賞はあまり盛り上がらず、9年春巡業を最後に廃止された。巡業MVPは稽古量が多いことが第一条件だったため、旭鷲山が毎回受賞していたが、そのことも巡業表彰を辞めた一因だったと言われている。

「だいたいプロなのに稽古をしたからと言って賞金をもらえるというのも変な話。それならやらなかったやつには罰金をもらおうか(笑)。あるいは百たたきの刑とかね(笑)。こちらの候補はいっぱいいるぞ」と当時の陣幕巡業部長(元横綱北の富士)は冗談めかして語っていた。

ところで相撲界には「稽古は嘘をつかない」という言葉がある。しかし旭鷲山の場合は“技のデパートモンゴル支店”として土俵を沸かせたものの、最高位小結と、必ずしも番付上で結果が出たとは言い難い。

ある親方は「シュウ(旭鷲山)はただ体を動かしているだけ。もっと前に出る稽古をしないと」と苦言を呈していた。

確かにあまり踏み込まず、もろ手を出す立ち合いは最後まで変わらなかった。

同親方は「あれだけ足腰がいいのだから、朝青龍のような相撲を心掛けていれば、大関まではいっていたのでは」と残念がっていた。

次回に続く

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