コラム
相撲記者長山の歴史コラム 美男力士列伝 幕末〜昭和戦前③
2020年9月10日 17:55配信
古今美男力士列伝 いくら強くても、顔が鬼瓦みたいな力士ばかりでは相撲興行は盛り上がらない。最近の相撲人気も、遠藤や炎鵬のようなイケメン力士の存在が大きいのは間違いない。 江戸の頃より顔立ちのいい力士は存在しただろうが、錦絵でははっきりと判明できない。写真技術が長足の進歩をみせた幕末以降の美男力士を、個人の独断で列挙してみた。ただしお相撲さんの場合は強さが伴ってこそ、その美貌がより映えるのは間違いなく、三役以上の力士に限定した。
★朝日嶽鶴之助(大関) 綾瀬川のところで紹介し“ほどのよいのが朝日嶽”というのは、容姿に恵まれ、相撲も強かったということを指す。 朝日嶽は天保11年(1841〈天保9年説もある〉)に庄内由良(現山形県鶴岡市)に生まれた。庄内藩の船人足として働いていた時に藩主に勧誘されて同郷の立田川(元関脇常山)の門人となる。万延元年(1860)10月場所に二段目で付け出され、慶応4年(1868)5月場所に新入幕。関脇を7場所連続務めて、明治10年12月場所で大関になった。 177cm、113kgと均整の取れた体格。色白の美男力士だったが、人気におぼれず誠実な相撲を取り続けたという。 大関として故郷・山形に凱旋した時の人気はすさまじく、京都の五条家より“山形限定の横綱”を許してもらう。横綱の実力なかったため、その後吉田司家が認定することはなく、正式な横綱ではない。 〽お相撲さんとは 名もよけれども 相撲もよく取る 男もよいし 女泣かせの朝日嶽 当時、上記の相撲甚句が流行ったという。朝日嶽の人気が偲ばれる。
すごい人気で、故郷・山形限定の横綱を許された朝日嶽
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