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インタビュー

白鵬(前編):「型をもって型にこだわらない」横綱スタイル

2019年10月1日 11:21配信

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日本の伝統文化を色濃く継承する、華やかな大相撲の世界。力士たちは皆、なぜこの道を志し、日々土俵に向かっているのだろうか。本連載コラムでは、さまざまな人気力士たちにインタビューし、その素顔を探っていく。

今回、満を持して登場していただくのは、不動の横綱・白鵬翔関。先日、帰化したことが大きな話題にもなった。15歳での入門後、世界中に名を轟かす大横綱へと上り詰めた、その軌跡を辿る。

(聞き手・文・撮影=飯塚さき)

横綱ならではの苦悩と打ち立てた大記録

――言わずと知れた大横綱の白鵬関。2007年に横綱に昇進して以来、12年以上もの間、その地位を守っています。大関までの間と横綱になってからでは、心持ちやプレッシャーに何か変化がありましたか。

白鵬関(以下、「」のみ)「江戸時代以前の相撲では、一番上の番付は大関であって、横綱の地位は後からできたものでした。私は1年間大関を務めましたが、その間にカド番も経験しています。カド番だった場所は、序盤は2勝2敗で五分の成績。そこから最後は10勝5敗の結果を残しましたが、大変な気持ちになったのを覚えています。でも、横綱になってからは、それより大変なときもありました。私が大関以下だったとき、元横綱の方が『横綱の気持ちは、横綱になった人にしかわからない』と言っていました。力の差はそんなにないはずだ、そんなことないんじゃないかと思っていたけれど、いざ上がってみたら、精神的なものの違いがはるかに大きかったんです。富士山に例えればわかりやすいかな。山のてっぺんに横綱がいるとしたら、大関は麓です」

――そこまで大きな違いがあるということですね。

「力ではなく、精神的にね。そして、てっぺんの上にさらにもう一つ富士山を載せて、その上に『後の先(ごのせん)』があると思うのです」

――後の先。相手よりも一瞬遅れて後から立ち合うけれども、立った後には自分が先手を取る。

「そう。それをしていたのが、私の尊敬する双葉山です。だから、彼は私にとっても相撲の神様なんです」

――なるほど、奥深いですね。では、これまでで印象に残っている場面はありますか。

「記憶に新しいところでいえば、平成最後の春場所。千秋楽でケガはしましたけれど、15戦全勝優勝で終わりました。42回目の優勝、そして15回目の全勝優勝だったので、思い出深い場所にはなりましたね。あとは、2010年11月場所で、63連勝の連勝記録を出し、64回目の勝ちに臨んで負けたときの稀勢の里戦。当時は、負けることを忘れていて、取組後の支度部屋で『これが負けか』とつぶやいたと思います。でも、あの黒星があって今の自分があるかもしれませんね。双葉山がもつ69連勝には届かなかったけど、15日制になってからは歴代1位の記録なので、この記録に恥じないように今後の相撲道に精進しなくてはならないという思いになりました」

偉大な父のもとに生まれ日本の大相撲の世界へ

――横綱は、かつてモンゴル相撲で横綱の地位にいただけでなく、メキシコ・オリンピックのレスリング重量級で銀メダルを獲得した、偉大なお父さまのもとに生まれ育ちました。中学生まではバスケットボールにも熱心に打ち込まれていたとのことですが、日本の相撲界に入るきっかけはなんだったのでしょうか。

「スポーツ全般、見るのは好きで、モンゴル相撲も観戦に連れていってもらったことがあります。父から何かスポーツをやれと押し付けられたことはなかったし、バスケットボールも好きだったけれど、やっぱり父の影響もあって、どうしても相撲がやってみたかった。つらい、きついかもしれないとも考えなくはなかったけれど、それより挑戦したい気持ちがあったのと、環境的にも自然と入っていきやすかったとは思います」

――初めて来日したときは、どんな気持ちで日本にいらしたんですか。

「来日したのは、ツアー旅行なんです。大阪にある道場で、アマチュアで稽古している人たちに相撲を習いに行くというものでした。それで、1か月過ぎた頃に私は相撲に惚れて、もしチャンスがあるなら残って頑張ってみたいと思いました。それが、15歳のときです」

――入門当時はとても細かったんですよね。

「65kgです」

――大変なことも多々あったかと思います。

「まず、日本語の壁がありました。兄弟子から、この歌は覚えやすいからと、夏川りみさんの『涙そうそう』のCDをもらって、歌詞カードを見てとにかく真似して書いていました。わからない漢字が出てくると、歌を聞いて音を耳で覚えました。不思議なことに、日本語がうまくなると番付も上がっていくんですね。デビューでは負け越してしまいましたが、そこから6場所勝ち越しでした。三段目でもう1回負け越してしまいますが、それは体力不足でしたね。とにかくたくさん食べました。食べる稽古もそうですが、寝る稽古もたくさんしました。一番寝たのは、最高で18時間。先輩たちが出かけて、帰ってきても私が同じ体制で寝ていたので、『死んでるんじゃないの?』と話していたそうです(笑)。稽古して食べて寝る。当たり前のことだけど、それができるかできないかの差は大きい。つらいと思うことはあったけど、故郷に帰ろうとか、そういったことはなかったですね。帰ったら親父の顔に泥を塗るんじゃないか、親に恥をかかせてはいけないという気持ちが強くありました」

型をもって型にこだわらない横綱のスタイル

――これまで駆け上ってきた相撲人生のなかで、何か転機はありましたか。

「17~18歳、幕下に上がった頃でしょうか。人との出会いや新しい考え方に巡り合って、一気に開花した気がします。幕下に上がると負け越す力士が多いのですが、私は負け越さず、5場所で関取になりました。上がったときは、幕下9枚目で6勝1敗だったので、普通は上がれません。でも、その場所から公傷制度(*場所中のケガによる休場は、来場所も番付を落とさずにいられる制度)が廃止されたことで番付に入る人数が増え、10人の枠が空きました。さらに、私より上の番付にいた安馬(のちの横綱・日馬富士)と旭天鵬が、3勝4敗で負け越していた。それで、9番目だった私が十両に上がることができたんです。そんなラッキーな上がり方をしているから、新十両の場所は負け越すかと思いきや、きちんと勝ち越して、次の場所には十両優勝して、十両は2場所で通過しました。その頃は、寝て起きたら強くなっている感覚がありましたね」

――出世街道まっしぐらです。日本語もどんどん流暢に上達しましたね。

「幕内に上がって、今の奥さんと付き合い出したので、そこから日本語はさらにうまくなりました。言葉の理解と相撲の強さは比例していましたね」

――現在、何か心がけていることはありますか。

「私には好きな言葉があります。『型をもって型にこだわらない。これができるのは、名人であり達人である』。型も何もないのにいろいろやってもダメなんです。まずは自分の型をつくるべきで、私の場合は右四つ・左上手。これが絶対の型です。これをベースとしていろいろ試します。自分の型にはまれば最高ですが、はまらない場合にどう対処していくのか。それを模索するのです」

後編へ続く

※この対談は8月に行われたものです

【プロフィール】

白鵬翔(はくほう・しょう)

1985年3月11日、モンゴル・ウランバートル市生まれ。本名・ムンフバト・ダヴァジャルガル。宮城野部屋所属。メキシコ・オリンピックのレスリング重量級銀メダリストである父のもとに生まれ、2000年に初来日、宮城野部屋に入門し、01年3月場所に初土俵を踏む。序の口の土俵では負け越すも、その後04年1月場所で新十両、5月場所で新入幕と出世街道を駆け上がり、07年7月場所から現在まで綱を張る。連勝記録は63。10年3月場所~9月場所の4場所連続全勝優勝で、双葉山の69連勝に次ぐ歴代2位、15日制になってからは歴代1位の記録。そのほか、横綱在位72場所、優勝回数42回、全勝優勝15回など、いずれも歴代1位の大記録を数多く保持している(2019年9月現在)。得意技は、右四つ、寄り、上手投げ。

【著者プロフィール】

飯塚さき(いいづか・さき)

1989年生まれ、さいたま市出身。早稲田大学国際教養学部卒業。ベースボール・マガジン社に勤務後、18年に独立。フリーランスの記者として『相撲』(同社)、『大相撲ジャーナル』(報知新聞社)、『Yoga&Fitness』(フィットネススポーツ)、『剣道日本』などで執筆中。

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